それは未遂というもの

 思わず携帯電話を投げ捨てそうになり、桐子は慌てて思いなおした。
 いや、投げつけたら壊れるでしょ確実に。一人ごちてため息をつく。
「はろ、桐子姫」
「ん~」
 誰もいなくなった放課後の教室。椅子に座りぺたりと机に突っ伏した桐子は、その覚えのある声に力なく答えた。
「あんた帰んないの、じゅーじ」
「帰ろうと思ったら、桐子姫みつけたからさ」
 じゅーじ、こと十時宰蔵(とときさいぞう)はふわふわ笑いながら桐子の前の席へと座る。
「ねえねえお姫様、王子様はどーしたの?」
「ちっ」
 全く邪気のない能天気かつ天然な聞かれ方に、桐子はキレそうになったのを舌打ちでどうにか打ち消す。今この状態で聞かれたくないことを的確についてくる、敵はさるもの、腹が立つ。
 知ってて“王子様”とか言う辺りが更に苛つかせる原因だ。
「ぶん投げたら壊れるよね、ケータイ」
「だよねーわかってるよーんなこと」
 棒読みで適当に桐子が言うと、宰蔵はだよねぇ、と頷く。
「で、カナを待ってんの」
「……うーわ、ヤな奴」
 本当に本当に嫌な奴ですよ、と桐子は重ねる。
「つか、知らないってあんな奴。メールしても電話しても忙しいって相手してくんないし」
 あまりにも相手にしてくれないのでキレそうになり、先ほど携帯電話を投げ捨ててやろうかと思った程だ。ふざけんなーいい加減にしろーって怒鳴ろうにも電話は繋がらず。
 ふてくされたまま、桐子は投げ捨てるように言う。
「加仲(かなか)さんはぁ、忙しくって私の相手なんてしてられないってさ」
 久しぶりに名字をちゃんと呼んだかもなぁ、と桐子は思う。彼女も宰蔵と同じように、カナと呼ぶのが定着してしまっている。一度“カナカナ”とふざけて呼んでみたら、見事にヤメロヤメないとキリキリって呼ぶぞと言われてしまったので、それ以降呼ぶのはやめた。
「そもそも、付き合ってくれって言ってきたのはそっちだっての。もー私って何なんだろ」
 一緒に帰ろうと思ったら既にいなくて。ごめん用事があるからって軽く言われて。それが今日だけならまだしも、かれこれ一週間近く続いているものだから。そんなに私と一緒にいるのが嫌なのかよ、と言いかけた言葉を飲み込んだ自分って大人。などとどうにか自分を騙くらかして、愚痴ろうとした友達には「ごめ~ん、この後カレシと会うからさぁ」とかさらりとお断りされた。
 はあ、とため息をまたひとつ。
 自分が何かしたのかな、とか。
 もしかしたら嫌われてしまったかもしれない、とか。
 あれこれ考えては不安になって。
「……でも、絶対泣かねぇ」
 自分は怒っているのだ。桐子さんは怒っているのだよ。
 悲しい、わけじゃ、ないのだ。
「って」
「ん」
 あれ、と桐子は目線を上にやる。
 頭の上には宰蔵の手があって。やさしくやさしく撫でられていて。
「何してんの」
「イイコイイコ~」
「私は子供かっ」
 思わず噛みつくが、宰蔵はどこ吹く風だ。
 そのあたたかな手は、麻薬のように桐子の心に入り込む。心地が良いので、困る。
「サンドバックは無理だけど、抱き枕にならなるよ~」
 頭の上から聞こえる声に桐子は眉根を寄せる。意味がよく解らない。
「どうでしょう、下僕などはいかがでしょうか、お嬢様」
 お姫様がお嬢様になっている。
「あんたさ、頭ワイてる?」
「はい、わいてます。更に、出血サービス中でございます」
「気持ち悪いんだけど、その丁寧語」
「おや、喜んでもらえたのなら幸いですね」
 ちらりと見れば、宰蔵は片目を瞑った。どう考えてもからかわれている。
 はああ、と三度のため息。しょうもない時間を過ごしたが、少しは気が紛れたので桐子は小さく笑ってみせた。
「桐子」
 ふ、と。
 桐子は頭を起こす。瞬きをすると、思ったより近い場所に宰蔵の顔があった。
「弱みに付け込むのは、卑怯だったり?」
 何故か、いつもよりも声が低い気がした。ああ、まだ遊びの延長なんだな、と桐子は勝手に思って。そう思うことにして、鼻で笑う。
「バカ。付け込む気なわけ?」
「気なわけ」
「は……」
 何考えてんのアホじゃない、と出かかった言葉はどうしてだか消えていった。
 宰蔵の手が桐子の頬に触れる。あったかいなー、とのんきに思う。何故か目が合うと、ふわと笑った。
「俺だったら、桐子を泣かせないのにな」
 いや、私泣いてないけど!? と反論しようとしてあ、マズイと思わず唇を噛んだ。瞬きをしたらダメだ。口を開いちゃダメだ。つん、とこみ上げるものを桐子は下すように指令を送る。脳へ指令、脳へ指令、泣いちゃいけません。泣かないとさっき決めた筈です。
 深呼吸をすると、宰蔵がまた桐子の頭を撫でた。どーしてこう反則技を使うかな、と彼女は心の中で叫ぶ。楽になれそうな気がして、本当に困る。
「桐子」
 いやさっきまで“桐子姫”って呼んでたじゃん。
 まてまて、“お嬢様”だったっけ。
 近づいてくる宰蔵の顔に、唇に、桐子はあれ、と思って。
 すがっちゃうのもアリかもね、とか勝手に考えてて。
 考えた、心は。

「……カナ」

 自分の口から出た言葉に、桐子は驚く。
 目の前にいるのは、宰蔵。にもかかわらず、彼女が求めるのは彼ではなく。

「ん~、カナならトマトとランデヴー」
 気が付くと桐子の目の前から宰蔵の顔が遠ざかっていた。おどけた口調の宰蔵に、桐子はぼんやり視点を合わす。
 は? トマト??
 宰蔵の言葉に脈絡がないのはいつものことだが、これはない。
「カナが、何だって?」
「トマトとランデヴー。あーもしかしたらナスに乗り換えたかもね」
「ちょ、一体何言ってんの」
「うん。だから、この時間なら陳列中」
「陳列中、って。はあ?」
 単語がちっとも繋がらない。困惑する桐子に、宰蔵は面白い玩具を見つけたような顔をする。
「だから、カナはスーパーでバイト中」
「は……あ? バイト……?」
 トマトとランデヴー。ナスに乗り換え。陳列中。
 何となく繋がった。意味は、どうにか理解できる。
「野菜売り場で陳列してんの見たんだよ。物凄い勢いで口止めされたけど」
 あ、そだった口止めされてたんだっけ、と宰蔵は自分の頭を軽くはたく。
「何、それ。私初めて聞いた」
 桐子は加仲から一言もそんなことを聞いていない。
「あーそりゃ、言ってないだろうしね」
「え、でも。言ってくれればいいじゃん」
 一緒に帰れないのも先に帰っちゃうのも、バイトがあるからだと。それなら、桐子にも納得ができた。そっかー頑張ってね、って言うことだってできた筈。
「つか、ヤダって。カッコ悪いっしょ。スーパーであくせくバイトだよぉ? エプロンつけてさ。桐子姫には特に見せたくないに決まってんじゃん」
 いやそれ意味わかんないし。
 桐子はむう、と顔を歪める。
「どうしてバイトなんか始めたんだろ」
「――桐子姫、来月誕生日って聞いたけど」
「ん? ああ、そうだよ」
「プレゼント買うって張り切ってたけど、カナ」
 バイト→お金→プレゼント。宰蔵の言葉で全てが繋がる。用事があるから、というのはこのことだったのか、と。
「嘘……」
「ウソつく必要ないよね、俺」
「――……え、でも、ウソぉ」
「だから嘘なんかじゃないって」
 俺の話聞いてる? と、宰蔵が桐子を覗きこむが、彼女はそれどころではなかった。驚いて、それから慌てたように携帯電話を取り出す。ああ、投げつけなくて良かった本当に良かったと胸をなで下ろしつつ。
「カナもさぁ、ひとこと言えばいいのにさ。恥ずかしがったり気配りにかけてっから、桐子姫しか相手にしてくんないんだよ」
「じゅーじは違うもんね」
 宰蔵の周りにはいつも女の子がいて。全く不自由していなくて。来るもの拒まず去る者追わずで節操なくて。間違いなく碌でもないのに何故か嫌われることはなくて。
 そういう意味を込めて桐子が言うと、宰蔵は一瞬目を細めた。
「さあ、どうだろ」
 その一言はいつもの彼とは違っていて、違和感があって、だけれどそれが何かが解らなくて。でも何か言わなくちゃと口を開きかけた桐子の言葉を遮るように、宰蔵が彼女の口を片手で塞いだ。
「ヨカッタね~桐子姫。“その気”にならなくて」
 未遂ってやつだよ、危なかったよね。と片目を瞑る宰蔵に桐子は一発くらわす。冗談でもそれ以上は言うな、という意味を込めて。
「で。カナんトコいくの?」
 イテテ、と桐子が軽く殴りつけた腹部を押さえる為、彼女の口から手を外しながら宰蔵が聞くので、桐子は少しだけ考えて。結論を出す。
「ん、やめとく」
「そっか」
 宰蔵に聞けばどこのスーパーか教えてくれるだろう。偶然を装って行き、声をかけることも考えた。トマトと仲良くなった? と聞くのもいい。
 けれど。
「カナ、頑張ってくれてるんだよね。だったら待つよ。誕生日、楽しみだから。そんで思い切り喜ぶんだ」
 来月が待ち遠しいよね、と桐子は片目を瞑る。
「うーわ、桐子姫。俺、惚れそ。今からでも遅くないし、俺に乗り換えない?」
「乗り換えない」
「おおっと、俺、失恋」
 失恋も何もあんた私で遊んでるだけでしょ、と思いはするが口にはしない。
 桐子は立ち上がり、真正面から宰蔵を見た。
「今度ジュースでも奢る。マジ、ありがとね」
「いやいや。俺もうっかり秘密もらしたし」
 じゃあね、と手をひらひらさせて。桐子は教室を後にする。
 先ほどまでの気持ちはすっかり軽くなっていて。
 怒りも悲しみも癒えてしまっていて。
 少しだけ宰蔵によろめきかけた自分を叱咤するように、桐子は携帯電話を握りしめる。
「まあ、未遂だしね」
 と、都合よく解釈して。

 

(初出:2011.5.25)

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