人喰らう紅

 暗さに沈んでいくのは心地が良い。

 どす黒く染まった空が、やけにきれいに見えた。雲の切れ間もなく真っ暗な夜はどこまでもやさしく包んでくれるようで、サヨリはほっと息をつく。強張った体が弛緩する瞬間が一番危ないのだと言ったのは、ヤヒロだったか。
 眠りにつく城下というものはこれ程までに無防備なものなのだろうか。耳を澄ませばどこかの辻斬りか悲鳴が聞こえる。天誅、と叫ぶ声も聞こえてくる。人斬りが横行する宵闇はあまり気持ちの良いものではないが、慣れてしまえばどうということもない。染みついた血の匂いが鼻孔をくすぐり、サヨリは鼻をすすった。
 辻を抜けるようにして走ると、胸元で跳ねるものがある。
 人気のない場所で立ち止まると、胸元からそれをそっと出す。
『たまには化粧のひとつもしたらどうじゃ』
 お前も女だろうに、と頭をはたかれながら押し付けられたのは紅だった。
『尤も、お前が紅などつけたら人でも喰らったかと思うがのう』
 血の色と同じじゃ、と彼の人はサヨリに笑った。その笑い方は彼女にとって見慣れたもので、いつも通りでなんの変哲もなく自然すぎてどうしてだか胸がしくしくと痛んだ。こんなことを思う自分に驚き、自己嫌悪にさいなまれた。
 人として、人間としてあるのはサヨリにとって幸いだった。まだ手放していない人らしさを失わずにすむのは恐怖と甘美の狭間であり、どっちつかずの曖昧さが彼女を苛立たせもした。
 それでも、“使える”うちは始末はされないのだから。

 

「ああ、お帰りサヨリ」
 にこりともせず、ヤヒロが出迎えた。
「ただいま」
 畳の上にごろりと横になり面白くもなさそうな顔でサヨリを見上げるミコトは、何も言わなかった。それはいつものことなので、サヨリも気にすることなく座り込む。す、と横からお茶が出てくる。ヤヒロは気が利くな、とサヨリはぼんやりと思った。暖かいお茶は少し冷えた体を温めるようにじんわりと広がっていった。
 三人いるところで、殊更話すこともなく。サヨリは静かに目を閉じた。
 ――討ってこい。
 命はそれだけだった。
 簡単かつ簡潔でそれ以上でもそれ以下でもなく。非常にわかりやすく丁寧だった。
「終わった?」
「……まだ」
「そう」
 短いやり取りの中に殺伐とした安堵があるかのように。
 目を開ければミコトがサヨリを見ていた。何もかも見透かすような彼の視線は少し苦手だな、と彼女はいつも思う。口が悪く素行も悪いが、彼はどこまでも正直で真っすぐで偽りがない。故に、ミコトの言葉は残酷で傷をえぐるように鋭い。辛辣で救いがない。
 そう、怖い、のかもしれない。
 漠然と湧き上がる感情にサヨリは苦笑した。
「どうやろうと勝手だけどさぁ。アタシだったらそんなまどろっこしいことしないしぃ~」
「よく言うよ。ミコトはいつも“遊びすぎ”でしょ」
 ミコトの軽口をぴしゃりとヤヒロが遮った。
「ヒロちゃんは効率重視だもんね」
「長引かせるのは面倒」
 サヨリは成程、と納得する。
 人によって“やり方”は様々だ。
 だが、今回に限ってはミコトが言うこともよくわかる。
 つまり、サヨリは時間をかけすぎているのだ。いつのならばするりと近づいて懐に入り込んだと思った時点で実行する。それを、ゆるゆると時間をかけにかけて近づいて多分、懐には入っているように思う。その状態のまま、未だ実行に及んでいないことをミコトは言っている。討てと命を受けたのならば、さっさと実行すればよいのだ、と。
 当たり前すぎて異論はない。その通りだと思う。
 それでも未だ手が出せないのは、心の奥底に燻るようにしてある“何か”のせいだ。
 サヨリはその“何か”を知らない。知ろうとは思わない。ただずっと己の内にあり煩わしいと感じるだけだ。気持ちなど意味がないもので、心など持ってしまえば足枷となる。感情を是とする程愚かしいものもない。肝心な刃が濁ってしまえば遂行はできないのだから。
 意味のないモノに成り下がっては、生きている意味はない。
 生きていく為には成さねばならない。何もせずに生きてゆける程、この世界はやさしくはない。引き換えにしてでも生きていくのは、生命の節理のように思えてならない。多分、それは、生きていることで得られる高揚感のようなものだろう。
 ため息をつきそうになり、サヨリは慌てて唇を引き結んだ。
 あれこれと考えたことで、詮無き事だ。
 決めるのは、サヨリではない。サヨリはただの刃で実行するためだけにある存在なのだから。
「ごちそうさま」
 お茶を飲みほした器をヤヒロに渡すと、サヨリは立ち上がった。少し、休もう。そうすればまた、きっと。
「サヨリ」
「ん?」
 ヤヒロの手がサヨリの腕を掴んでいた。
「情というのは、厄介なものだよ」
「!」
 ヤヒロの瞳に走ったなんともいえない鋭いものに、サヨリは舌打ちしそうになった。そのかわりに、腕を振り払う。力を入れてなかったヤヒロの手はいとも簡単に放れた。その行為こそがそうであることを認めているというのに。無様すぎて厭になる。
 踵を返そうとするサヨリの背中を、ヤヒロの言葉が追いかけた。
「あんたは、死なないで」
 うるさい。そう叫びそうになりながらもサヨリは立ち止まりもせず部屋を出た。
 ああいうヤヒロは、うっとおしい。大きなお世話だ。
 唇をぎゅっと噛むと、サヨリは頭を一度振った。
 ――あんたは。
 その意味は解りすぎる程解っている。
「私は、ヤエとは違う」
 討てず、討たれた女とは。あんな風には、ならない。
 あんな風には。

 

「僕は、この日本をより良い国にしたいと思うちょる」
 にこにこしながら彼の人はサヨリに夢を語った。
 国を? と、訳が分からず彼女は聞き返した。話が大きすぎて全く想像すらつかなかった。
「列強と肩を並べられるような、大きな国にしたいのう」
 列強、というのは他の国のことだろうか。例えば、えげれすとかいう。日本という国をサヨリはよく解っていなかったし、外国というのがどういう所なのかも知るはずもなかった。日本には将軍がいて、天皇がいて、というのは知識としてあっても日々の生活にそんなものは関係なかったし、今日を生き延びることの方がよほど重大なことであった。
 ぽかんとしているサヨリの頭をぽんぽんと軽く撫で、彼の人は破顔した。
「まあ、これも先生の受け売りじゃ」
 先生、という人をサヨリは知らなかった。命ぜられたのは、隣で楽しそうに笑っている男を討つことだけだ。それだけだった。
「日本は、」
 何か言わなくては、とサヨリは思った。話はよく解らなかったし、説明されても聞く気はなかった。
 けれど、それは彼の夢なのだから。彼が追い求めるものなのだから。
 する、と言葉は出てきた。彼女が驚く程に簡単に。
「日本は、良くなるの?」
 何が、ともどうやって、とも聞きようがなかった。そんな漠然とした問いかけに、彼の人は少しだけ考えるように顎に手をやる。
「良くするんじゃ、僕が」
 ややあってから、きっぱりとした返事があった。
 前を向く男の夢は、眩暈がする程輝いていた。

 

 小指に紅を付け、唇にひいた。
 鏡の中の自分が、無表情でこちらを見ている。化粧などしたことがなかった。見よう見まねで紅をさしたが、こんなものだろう。
 遂行は、今夜。
 懐に忍ばせた小刀と銃の感触を確かめる。聡い人だから感づかれるかもしれない。それでもサヨリがサヨリでいられる為にはやるしかない。
 足音を立てぬよう、そっと寝所へ入る。今日も一人きりだろう。暗闇の中、布団の枕元へと移動する。
「夜這いか」
「そんなところです」
 声が震えぬようにするのがやっとだった。と同時に、この人は全てを知っているのだと理解した。
「紅、きれいじゃ」
 この暗さでよくも気が付くものだとサヨリは呆れた。
「して、何用かのう」
 妙に間延びした質問に、サヨリは心から、笑った。
「人を、喰らいに」
「ほうか」
 至近距離だというのに彼は意に介していないのか、あろうことか目を瞑る。サヨリは力が入りすぎて痺れていた手をそっと、開いた。血がめぐる感覚が戻ってくる。
 噛み殺してやろうか。
 静謐な中、どちらともなく顔が近づき。
 唇が重なる。

 ――嗚呼、このまま二人で死にたい。

 叶わぬ願いを抱き、サヨリは小刀を突き刺した。

 

(初出:2015.9.18)

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